満員のコンサートホールの中央前列を指定された春花は、先程からソワソワと落ち着かないでいた。後ろの方や端ならともかく、舞台から近いここは明らかに特等席なのだ。自分がいていい場所なのだろうかと何度もチケットを確認するが、席の番号は間違いない。ブザーが鳴り、ホールが薄暗くなった。ざわざわとしていたホール内も波が引くようにしんと静まり返る。その刻が近づくにつれて、春花の心臓はドキドキと高まっていった。パッと舞台に照明が輝き、舞台袖にスポットライトが当たる。わき起こる拍手に春花は肩をびくつかせながら、遅れて手を叩いた。カツカツと足音が聞こえる距離に、心臓がきゅっと音を立てる。タキシードに蝶ネクタイ。スラリと伸びた手足はスタイルのよさを引き立てる。かっちりとセットされた髪の毛は高校生のときとは違って、大人になったことを証明しているようだった。(これがピアニスト桐谷静……)あまりの美しさに見とれていた春花だが、ふと目が合った気がしてまたドキッと肩を揺らした。その流した目線は春花をとらえるとしばらく留まっていた気がしたのだ。(まさかね、偶然でしょ?)煌々と照らす照明は客席からは舞台がよく見えるが、舞台から客席はほとんど見えないはずだ。例え見えていたとしてもうっすらで、目が合うようなことはないだろう。それでも春花の気持ちは益々高揚していった。グランドピアノが照明によってより一層厚い存在感を出しているのに、舞台に立つ静はそれに負けないくらいの圧倒的存在感を醸し出していた。まだピアノに触れてさえいないのに、静の立ち振舞いは春花の心を揺さぶり続ける。
しんと静まり返るなか、ポロン……と演奏が始まった。普段聴いているCDの音源とは似て非なる重厚なグランドピアノの音。力強い音も繊細な音も、その音一つ一つを静が紡ぎ出していることに春花は鳥肌が立つほど体が震えた。鍵盤を叩く音の響きのみならず弾いている動作までもが美しく、静も含めすべてが芸術作品のようで観る者を魅了して止まない。これが、ピアニスト桐谷静の魅力なのだろう。春花は余計なことを考える余裕もなくなって、じっと静の演奏を見つめていた。静の繰り出す音楽という優しい空間に身を委ねる。それはまるで海の中を漂う海月のように、ふわふわ、ふわふわ、と。圧巻の演奏が終わり拍手喝采で幕が閉じた。ホールの照明が灯りまわりの客がぞろぞろと出口に向かって歩き始めるも、春花はしばらく呆然としていた。演奏の余韻が体中に広がって感動に包まれる。(すごかった……)感動を胸に、春花も遅れてホールを出た。外はすっかり暗くなっている。携帯電話の電源を入れて時間を確認し、最寄り駅まで歩き出したときだった。「山名!」突然背後から名前を呼ばれ、春花は振り向く。「……桐谷、くん?」息を切らしながらそこに立っていたのは、タキシードの上着を脱いだ軽装の桐谷静だった。
静はまわりに配慮しながら春花を人気の少ないところへ誘導する。先程まで演奏していた静が姿を現したとなれば大騒ぎになってしまうからだ。春花もそれを察知し、こそこそと隠れるように身を隠した。もう手の届かないところにいると思っていた静が春花の目の前にいる。高校のときと変わらず「山名」と苗字を呼んでくれる。その事実が何よりも嬉しかった。「山名、来てくれたんだ」「うん。桐谷くん、今日は素敵な演奏ありがとうございました。チケットも」会話をするのは実に五年ぶりだというのに、二人の間にぎこちなさはまったくない。むしろ再会できたことの喜びが溢れ出てくるような、そんな気持ちの高まりがある。「うん。来てくれて嬉しいよ」「夢を叶えたんだね、本当にすごいよ」「山名はピアノ続けてる?」「うん。楽器店で働きながらピアノの先生をしてるよ。まあ、桐谷くんとは雲泥の差だけどね」自虐的に笑いながら、春花は感傷的な気分になった。静との差を自ら評価してしまったことでなんだか惨めな気持ちになる。「山名……」静が口を開くと同時に、春花の携帯電話がけたたましく鳴り出す。ビクッと肩を揺らしながら春花は携帯電話を取り出す。誰からの着信か大方予想はついていたが、春花は画面に表示された名前が思っていた通りの人物で、ガックリと肩を落とした。
「ちょっとごめんね」「ああ、うん」静に断りを入れてから、春花は電話を耳にあてた。「……うん、今仕事終わって帰るとこ。だから仕事だってば。……すぐ帰るから」やはり電話の主は高志で、今どこにいるんだ、帰りが遅いなどと文句を連ねる。ため息深く電話を切ると、静が怪訝な表情で春花を見ていた。「あ、ごめん、桐谷くん」「山名、もしかして無理やりコンサート来てくれた?」「え? ああ、いや、無理やりっていうか、桐谷くんのコンサートに来たかったのは本当。……実は彼氏の束縛が激しくて、内緒で来たの」「彼氏の束縛?」「あはは、もう、困っちゃうよね。束縛なんてさ」笑いながら何でもないように言う春花だったが、静の表情は益々強張った。そしてうかがうように聞く。「山名、今幸せ?」「え?」「彼氏に束縛されて幸せ?」ドクンと心臓が嫌な音を立てる。その確信を突いた問いは、春花の心をざわざわとさせて落ち着かない。「……ど、どうかな、あんまり幸せじゃないかも」「山名……」「ごめん、そろそろ帰るね。これからも頑張ってね」春花はふいと目をそらすと静の元を去ろうと足を踏み出す。だが、ガシッと左腕を掴まれ驚きのあまり足を止めた。「待って。次も来て」その意思の強い綺麗な瞳は、春花をとらえて離さない。春花は小さくすうっと息を吸い込んでから、「うん」と頷いた。その答えを聞いてから静はそっと手を離し、春花は控えめに手を振ると急いで夜道へ消えていった。静は複雑な気持ちで、春花の姿が見えなくなるまでずっと後ろ姿を見つめていた。
静に掴まれた手首がずっと熱を持っているようで、春花はあの日以来何度も左手を胸に抱えていた。事あるごとに高校時代が頭の中でよみがえり、そして変わらず素敵だった静の姿を思い出してはドキドキが止まらない。「山名さんも桐谷静のファン?」社員割引でCD購入の手続きをしていた春花に、店長の久世葉月《くせはづき》が声を掛けた。「え?」「毎回買ってるよね。いいよね、桐谷静」「はい、すごく癒されます。流れるような旋律がとても好きで目標です」「うんうん、わかる。山名さんのピアノ、桐谷静に似てるよね」「えっ? そうですか?」「何かこう、体全体で表現するとこっていうのかな。ピアノとの一体感が凄いっていうか。そうそう、山名さん、レッスンの評判もいいみたいね。これからも頑張ってね」「はい、ありがとうございます」葉月は敏腕店長で、楽器店の売上が横ばいだったり伸び悩む店舗が多い中、ここ数年は右肩上がりで売上を上げている。楽器を売ることはもとより音楽教室にも力を入れていて、指導に関して経験の乏しい春花も入社後は葉月によって鍛え上げられた。今では一人前に先生と呼ばれ、一度ついた生徒が辞めることは滅多にない。だからこそ、忖度なしの葉月の言葉は重みがあり、春花は嬉しくも照れくさい気持ちになった。
仕事が終わり家に帰ると、玄関には高志の靴が脱ぎ捨てられており、春花は無意識にため息をつきながら中へ入っていく。「遅い」開口一番、高志は不機嫌に言い、その言い草に春花もカチンとなって強い口調で言い返した。「来るなら来るって言ってよ」「言ったよな」「聞いてないよ」「仕事終わったか聞いたんだから、来るに決まってる。それくらいわかるだろ?」春花は帰る前に見た高志からのメッセージを思い出すも、それらしき会話をした記憶はない。「わからないよ」「わからないならお前はバカだ。理解力がない」どこまでもあげつらう高志は自分が正しいとばかりに春花を責め続け、相手をひれ伏さんとする。だが春花ももう限界を超えているのだ。いつまでも高志の言いなりにはならない。春花はぐっと拳を握る。「……もう帰ってよ」ようやく絞り出した声は少し震えてしまったが、それでも負けてたまるかという意志が込められている。「ふざけんなよ」高志の言葉は更にヒートアップし、手が出ることはないものの、春花の胸はえぐられるようにズキズキと痛んだ。悔しくて悔しくて、泣きたくないのに涙が溢れてきて、それを見た高志は更に勝ち誇ったように「泣けばいいと思って」と責め立て、ようやく長いケンカが終わったのは深夜になる頃だった。散々罵り春花を泣かせた高志は気が済んだのか、コロッと態度を変える。「俺は春花が好きだから、春花に会いたかったんだ。俺は春花がいないとダメなんだよ」甘えた声はただの耳障りでしかなく、春花は何も返事ができなかった。「春花、ほらおいで」高志は春花に優しい笑顔を向けながら、春花を包み込むようにぐっと抱きしめる。いつもならこれで仲直りをする。いい子でいたい春花は高志のことを許してしまうのだ。だけど今日の春花は違った。もううんざりだとばかりに、抱きしめられても腕はだらんと下ろしたまま、彼を抱きしめ返すことはなかった。
春花は以前よりも静のCDを聴く日が多くなった。静のピアノは春花の癒しになっている。むしろ今この音源が失くなってしまったら春花の心は崩れてしまうほどに、脆く壊れやすくなっている。静は春花の心の支えなのだ。そんな日々の中、また母から転送される形で郵便が届いた。それを目にした瞬間、春花の期待は一気に高まる。『次も来て』以前、静に掴まれた左手首が急に熱を持つような感覚を覚え、春花ははやる心を抑えながら封を開けた。ペラリと入っている一枚のチケット。 手紙も何もない、無機質な一枚の紙。それなのに春花にはずしりと重みを感じるものだ。「すごいよ、桐谷くん」ほう、とついた感動のため息は、久しぶりに春花の心を明るくさせた。静はどんどんと実績を上げ、自分の地位を確立している。そんな静の活躍に感化され、春花もまた、失いかけていた自分の在り方を見直していた。「私も頑張らなくちゃ」春花は携帯電話をぐっと握ると、ずっと言い出せずにいた言葉をゆっくりと文字に書き起こした。【もう別れよう】ずっと高志との関係を悩んでいた。嫌だと思いながらもずるずると高志のペースに流され、完全に自分の気持ちを押し殺していた。そんな情けない自分ともさよならしたい。春花は震える手で送信ボタンをタップする。すんなり別れてくれたら万々歳だ。だが高志のことだからねちっこく文句を言うかもしれない。いろいろと心の準備をしていると、案の定携帯電話が鳴り出した。春花は大きく深呼吸してから耳に当てる。『別れるってどういうことだよ?』怒り口調なのは想定していた。だから春花は冷静に言葉を紡ぐことができる。「……もう嫌なの。束縛されるのもつらい。いつも私は高志を怒らせちゃうし。別れるのがお互いのためだよ」『はあ? 何言ってんの? まさか好きなやつでもできたのか?』「違うよ」『春花がいないと俺は死ぬよ』怒り口調から、急に弱気な声になる。春花は惑わされないようぐっと堪えるが、妙な罪悪感に苛まれる。だがそれを打ち払うかのように首を横に振った。「……大丈夫だよ。今までありがとう」それだけ言うとそっと通話を終了し、深く息を吐き出した。 携帯電話を握りしめるその手はカタカタと震えてしまう。まずは一歩前進といったところだろうか。春花は緊張から解かれたかのようにベッドに身を投げ出した。
◇静のコンサートはまたしても特等席が用意されていた。期待に胸を膨らませながら、春花は舞台を見守る。ここ数日、高志のことでいろいろありすぎて疲弊していた春花だったが、今日のこの日を楽しみにしていた。むしろこのコンサートを励みに日々を過ごしていたといっても過言ではない。やはりグランドピアノに劣らず存在感を放つ静は、スポットライトに照らされてより一層輝いて見えた。流れる旋律は耳に心地良く響いていく。(ああ、いいなぁ)静の音楽に癒されるだけではなく、弾いている姿は春花をうずうずとさせる。(私もピアノ弾きたいなぁ)静の演奏する姿を見ていると、高校の時のあの音楽室での思い出が鮮明によみがえってくるのだ。あの時が一番楽しくて輝いていた。春花はじんわりとした気持ちに思わず目頭を拭った。コンサートが終わるとロビーが人で溢れかえり、しばらくすると黄色い歓声が上がった。(何だろう?)出口に向かって自然と列が出来上がり、春花もその波に乗った。珍しくお見送りがあるのだ。お見送りとは、こういったコンサートの終演後、演奏家がお客様の元へ姿を現し言葉を交わしたりできる貴重な場である。一人ずつ丁寧に対応する静を遠巻きに見ながら、優しいところは昔と何も変わっていないのだと春花は嬉しくなった。
家に帰り一人になると、今日の葉月と記者の言葉が思い起こされて胸が潰れそうになった。明らかに静のスキャンダルを狙っているような質問に、春花は身震いして自分自身を抱きしめる。今日は葉月のおかげで引き下がったようだが、きっとまた来るに違いない。もしかしたら他の記者も来るかもしれない。そうなると、輝かしい静の活躍に自分のせいで泥を塗ることになるかもしれないという不安が渦巻いた。元カレである高志とトラブルになってしまったことで、こんなことになっている。この先、静にまた迷惑をかけてしまったらどうしよう。誰よりも静を応援し、誰よりも静を愛しているからこそ、春花は一人悩み落ち込んだ。そっと左手首を撫でる。もう完治しているはずなのになぜだかシクシクと痛む。静のことだけではない、こんな不安定な状態のままピアノを弾き続ける事にも違和感を覚えていた。「ニャア」「トロちゃん、どうしたらいいと思う?」猫のトロイメライは春花にすりすりと頭をこすりつける。「トロちゃんだけは私の側にいてね」頭を撫でてやると、トロイメライは春花の足元で寄り添うように丸まった。そして春花は決意した。翌日、春花は白い封筒を差し出す。「店長、あの……」「どうしたの?」「辞めさせていただきたいと思って。今回はちゃんと私の意思です」「山名さん……」「ずっと考えていたんです。ケガをしてから前みたいに弾けなくて、どうしたらいいんだろうって」春花は一呼吸置く。葉月は急かすことなく春花の言葉をじっと待った。
「以前、店の前で人が刺される事件があったのはご存じですよね」「ええ、物騒ですよねぇ」「ピアニスト桐谷静の恋人のことは知っていますか?」「ああ、話題になっていますよね、三神メイサでしたっけ?」「三神メイサとは別に恋人がいることはご存じで?」「えっ! 二股ってことですか! やだー」「この店には桐谷静のサインがたくさんありますね。以前彼が来たらしいじゃないですか」「ええ、そうですね、以前来ていただいたんですよ」「どういうツテで?」「それは企業秘密ですよ」「桐谷静の恋人がこの店で働いているから?」「んもー、記者さんったら誘導尋問がお上手だこと。ここだけの話、実は私が大ファンなので知り合いに頼み込んでもらったんですよ。あ、これ他の店には秘密ですからね。絶対ですよ。あっ! もしかして桐谷静の二股の相手って私なのかしら? だとしたら光栄だわぁ」葉月の明るい声と記者の愛想笑いはその後しばらく続いたが、やがて埒が明かなくなったのか、記者の方が根負けて「今日はこのくらいで……」などと言って帰っていった。「あー、しつこい男だった」ため息とともに仕事に戻った葉月は、高くしていた声のトーンを落とす。「店長、すみません。私のせいで……」「社員を守るのも上の仕事よ。気にしないで。それより桐谷静が二股してるとか、その相手が私だとか、嘘言っちゃったわ。ごめんね」「いえ、いいんです。ありがとうございます」葉月の温かさが嬉しくて春花は目頭をじんわりさせた。本当に、良い職場で働いている。自分の蒔いた種なのにこんなにも守ってもらって贅沢ではないだろうか。ありがたいと同時に申し訳なさが込み上げてきて、春花は胸が押しつぶされそうになった。
何もかも順調にいっていると思っていたある日のこと。「すみません」レジで作業をしていた春花は声をかけられ顔を上げた。「はい、いらっしゃいませ」「以前、店の前で人が刺される事件がありましたよね。そのことについて少しお伺いしたいのですが」「えっと……」戸惑う春花に名刺が差し出される。 ぱっと目を走らせると、有名な雑誌社の名前が印刷されていた。「桐谷静の恋人と元彼がトラブルになったことを調べています」「えっ……あの……」ドキンと心臓が嫌な音を立てる。 この記者の目的は何だろうか。ドキンドキンと大きな不安に押しつぶされそうになり、言葉を飲み込む。 春花が何も言えないでいると、様子に気づいた葉月が横からすっと割り込んだ。「お客様、そういったご用件は店長である私がお受けいたしますので、従業員に聞き込みするのはやめて頂けますか? うちも商売なので、他のお客様に迷惑になる行為はやめていただきたいんですよぉ」「ああ、これは失礼しました。では店長さんにお話を伺っても?」「ええ、どうぞ。ではこちらに」葉月はスムーズに人気のないレッスン室の方へ誘導する。ドキドキと動悸が激しくなる春花は、一度大きく深呼吸して気持ちを落ち着ける。葉月と雑誌の記者の話が気になり、こっそりと聞き耳を立てた。
静は単独公演のみならず、三神メイサとのデュオでも大きな実績を上げた。国際コンクールにおいて優勝し、世界の舞台で通用する演奏家として名を馳せたのだ。静とメイサ、二人の偉業は大きく、連日ニュースが飛び交う。『静とは初めて演奏したときから運命を感じていました。これからも長い付き合いになると思います』カメラ目線で自信満々にコメントするメイサに、数々のフラッシュが飛び交う。『桐谷さんも一言コメントをお願いします』『そうですね……。このように受賞できたこと、光栄に思います』二人が微笑み合う姿は多くのメディアに取り上げられ、SNS上では「お似合いの二人」とまで囃し立てられていた。そんなものを目にしてしまった春花はドキンと心臓が変に脈打つ。静とメイサがそんな関係ではないことはわかっているし、静からもいつだって「愛している」と連絡が来る。もちろんその言葉を信じているのだが、さすがにこれだけ話題になると精神的に響くものがあった。「静、おめでとう! ニュースで見たよ!」『ありがとう。春花に一番に伝えたかったけど、メディアに先を越されたな』「それは仕方ないよ。今や日本を代表するピアニストだね」『まだまだこれからだけどね。でも一歩踏み出せたかな』「これからどんどん有名になるんだろうね。なんだか静が遠く感じられるなぁ」『俺はいつだって春花の元に飛んでいくよ』「そういう意味じゃなくて、雲の上の人ってことだよ。本当に、おめでとう。店長なんて大盛り上がりでCD平積みしてたよ」『日本に帰ったらお礼しに行かないとね。春花ごめん、今から祝賀会があるんだ。また連絡するから』「うん、わかった」『春花』「うん?」『愛してる』「私も、愛してるよ」電話越しの静はいつも通り優しく穏やかで、モヤモヤしていた春花の心もすうっと晴れていく。声を聞くだけで安心できるなんて、単純極まりない。そんな自分に春花はクスクスと笑った。
静は海外へ、春花も職場復帰し、いつも通りの日常が始まった。寂しさや物足りなさは密な連絡を取ることで回避され、お互い順調なスタートを切っていた。「山名さん、ニュース見たわよ! さすが桐谷静!」「はい、ありがとうございます!」二ヶ月が過ぎた頃すぐに大成功をおさめたニュースが飛び込んできて、恋人の活躍に春花は誇らしい気持ちになった。店に静が来訪してからというもの、社員たちの桐谷静推しも増している。やはり静が海外に行くことは正しかったのだと、証明しているようだった。「そうそう、山名さん。新規の生徒さんが入りそうなんだけど、受け持ってもらえない?」「すみません、ありがたいお話ではあるんですけど……」「まだ手首に違和感があるの?」春花が無意識に押さえた左手首を見て、葉月は心配そうに尋ねる。「そう……ですね。申し訳ないです」「ううん、いいのよ」「はい、ありがとうございます」春花は申し訳なく眉を下げた。捻挫した左手首はもうすっかり治っている。痛むこともなければ何かに不自由することもない。元通りの状態だというのに、ピアノを弾くときだけほのかに違和感を感じていた。「はぁー」無意識に出るため息は、春花の心をモヤモヤさせる。日々の生活に不満はないのに、なぜこんなにもやるせない気持ちになるのか。「静、頑張ってるなぁ」遠く離れた恋人を想いながら、春花はレッスン室に入っていった。
「私は十分幸せだよ。それより私のせいで静がピアノを弾けない方が嫌だよ」「ピアノなら国内でも弾けるよ。それに俺が海外公演に行ったら春花を守ることができなくなる」「大丈夫だよ。高志は逮捕されたし、私だってそんなに弱くないのよ」「……俺に海外に行けって言ってるの?」まるで運命のように再会してこうして恋人にもなれた。静にはたくさん助けてもらった。今度は春花が静を応援したい。好きなピアノを好きなだけ弾いていてほしい。「私は夢を追いかけている静が好きだよ。私のせいで静が小さな世界にいるのは嫌なの。だから遠慮なく行ってきて。これはチャンスなんでしょう?」春花の口からペラペラと出てくる言葉は嘘偽りない。静にはもっと自由に羽ばたいてほしいと願っているからだ。そして春花自身も、前に進みたいと思っている。静や葉月に守ってもらってばかりではなく、自分の力で未来に向かって進んでいきたい。そう心から思えるようになったのは、やはり静のおかげなのだ。「ねえ、春花の夢はなに?」「うーん、たくさんの人にピアノの魅力を伝えること、かな。静の夢は?」「……ピアノで世界中の人を魅了すること」「だよね。行きたいんでしょう? 行ってきなよ。やらずに後悔しないで。私も静が世界に羽ばたく姿、見たいな」「春花、一緒に……」「一緒にはいかないよ。だって私にはたくさんの生徒さんがいるんだから」ニッコリ笑う春花が眩しくて、静の方が胸が苦しくなる。思わず彼女を引き寄せてかたく抱きしめた。夢と現実は相反する。 手の届く温もりを手放すのは勇気がいるし、それと同様に、抱いてきた夢を諦めるのも勇気がいる。どちらが正しいかなんて誰もわからない。お互いの見据える先は果たして同じ方向を向いているのだろうか。二人が決めた道は未知の世界だった。
◇ 「春花、どうした?」リハビリがてら家でピアノを弾いていた春花だったが、曲の途中で手が止まり、すぐそばで聴いていた静が声をかける。「ううん。何でもないよ」フルフルと首を横に振るが、捻った左手首が思うように動かせず先ほどから納得のいかない演奏に気持ちが沈んでくる。「少しずつだよ、春花」察して静は春花の左手首を優しく撫でる。その心遣いが優しすぎて春花は胸が苦しくなった。いつだって静は春花を優先する。ピアノのリハビリもずっと付き合ってくれている。静だって次の公演に向けて練習をしなくてはいけないはずなのに、「俺はいいから」と身を引くのだ。そんな優しさが、かつての自分を見ているようで苦しい。そんなに気を遣わなくていいのに。 もっとわがままになってくれていいのに。「ねえ静、海外公演を断ったって本当?」「春花、その話どこから……?」「やっぱりそうなの?」「いいんだよ、それは。別にピアノなんてどこにいても弾けるだろう?」「でも夢なんでしょう? 世界中の人を魅了するのが静の夢」核心を突くような言葉に静は息を飲んだ。だがすぐに首を小さく横に振る。「俺の今の夢は春花を幸せにすることだよ」優しさが一層春花の胸を締めつける。それはそれとして静の本心なのだろうと思う。だがその言葉の裏にはやはり自分の感情を押し込めていると思わざるを得ない。静は誰よりも努力家で誰よりもピアノが好きで、もっと世界に羽ばたきたいと願っている。ずっと近くで見てきた春花だからこそ、わかるのだ。
三神メイサの言葉がぐるぐると巡る思考の中、春花の頭の中には高校生の時の静の言葉がよみがえる。『俺は世界中の人を俺のピアノで魅了させるのが夢だ』そう言った静はキラキラと輝いていた。春花はそんな静を応援したいと心から思っていたのだ。(ああ、そうだった。静の夢は世界に羽ばたくピアニストなんだった)そう思った瞬間、春花の心の中にあった何かが崩れ落ちた気がした。静とは一緒にいたい。ずっとずっと好きだったのだから。 ようやく手に入れた自分の居場所。これからも大切にしたいと思っているのに。 自分が愛されている、守られていることをひしひしと感じる幸せな今の生活。でもそれはすべて静の夢を犠牲にして成り立っているという現実。もし静が海外にいったらどうなるのだろう。 もっともっと有名になったらどうなるのだろう。平穏が変わってしまう事を考えると怖くてたまらない。静がいない生活なんて考えられない。でも……。 だからといって、自分のために夢を犠牲にするなんてことはしてほしくなかった。一緒に音大にいけなかった、ピアニストの夢をあきらめた春花にとって、今でも静の夢には全力で応援したいと心から思う。それが春花の夢でもあるからだ。(私なんかのために夢をあきらめちゃダメだよ)込み上げる涙を我慢して、春花はメイサの元を去った。
静から楽屋で待っててと言われていた春花は、演奏終了後に関係者として中に入った。静の名前が貼られた楽屋を前にノックをしようとしたとき、「ねえ」と声をかけられ振り向く。「あなた、静の彼女よね?」ワインカラーのドレスに身を包んだ三神メイサが、春花を値踏みするかのように立ちはだかった。「あの……」「あなたに話があるのよ。ちょっと来て」「えっ、あのっ!」有無を言わさず、メイサは春花を引っ張って自分の楽屋に連れ込んだ。パタンと閉められた扉はメイサの背にあって、簡単に逃げることができない。ワインカラーに負けないほどに目鼻立ちがくっきりした美人タイプのメイサは、腕組みをして春花を睨むように見下す。「あなた、静の足を引っ張らないでちょうだい」「……それはどういうことでしょうか?」「本当、能天気ね。静はこれから私と海外公演で名を馳せていくハズだったのよ。それなのに急に出てきたあなたにその夢を壊された」「海外公演?」「何? もしかして聞いてないの? 静はこれから海外でも実績を上げていく予定だったのよ。でもあなたがケガをして側にいたいから諦めるんですって」「え……」「本当に知らなかったんだ? 静はこれからもっともっと有名になる予定だったのよ。静には狭い日本より広い海外が似合ってる。海外からのオファーだってたくさんきているのよ。あなたもバカじゃないでしょう? 静を説得して。今ならまだ間に合うわ。身を引いてちょうだい」「そんな……」春花は押し黙る。メイサの話が本当かどうかわからない。静からは何も聞いていないからだ。だが静の実力なら海外からのオファーだってあるに違いないし、そもそも静のピアニストとして初の公演は海外だった。(私がいるから? 静は我慢してる?)